防災・減災への指針 一人一話

2013年12月06日
多賀城市の経済団体として復興を考える
多賀城・七ヶ浜商工会 会長
安住 政之さん

経済面での支援をすみやかに実施

(聞き手)
 発災直後の出来事で、印象に残っている点を教えてください。

(安住様)
震災後、津波に遭遇し、3時間ほど自社の1階で水に浸かっていたのですが、一命を取りとめました。
翌日の朝8時に災害対策本部を立ち上げ、まずは役員35名の安否確認をするため、自転車と徒歩で回りました。
多賀城市の国道45号から東側は浸水しており、七ケ浜町の海岸沿いのほとんどは壊滅状態でした。
とにかく職員と二人三脚で、手分けして理事さんの所に行きました。理事さんの下には総代さんという方々が120人いるのですが、その後は、その方々の安否確認に回りました。
結果、皆さんの安否確認が取れるまで1週間ほど掛かりました。そんな中、商工会の会員4名が犠牲になり、大変気の毒なことだったと思っています。
その事もあり、多賀城市を何とかしなければいけないと考え、全国の商工会から義援金を頂き、預金も含めて1600万円のお金を用意いたしました。
そして、約800人の被災している会員の方々に見舞金として一律2万円ずつお渡ししました。
何も持たずに逃げて来た方はお金を持っていませんし、市内の銀行もほとんど浸水しましたから、そこを補うという事で、1軒1軒、私自身が見舞金をお届けしました。
 そこにいるはずの人がいない時は、市役所や七ケ浜役場に行って「どこに移ったのか教えてください」と尋ねるのですが「個人情報だから教えられない」と言われる事もあります。
その時は、理事の方々や総代さんからの情報を頼りに、1軒1軒回りました。
皆さん、涙を流しながら「本当にありがとうございました、助かります」とか「商工会が一番早く来てくれた」というお言葉をいただきました。
中には「ここは被害が少ないから受け取れない。被害の酷かった方に渡してほしい」と言ってくださった方もいらっしゃいました。とても頭の下がる思いでした。
震災から2週間ぐらいは毎日歩いて回ったのですが、本当に皆さん喜んでくれましたので、私自身も労が報われたという気もしています。
震災の影響で仮の総会しか開けず、商工会を脱会する人が多くなると思っていたのですが、逆に、商工会に助けてもらったという事で、商工会をご紹介してくれる方々が増えました。
宮城県の沿岸部の商工会では、多賀城・七ケ浜商工会だけが唯一会員が増加している現状です。
月末は支払いや手形の決済、給料の支払いがあるので大変ですが、国民生活金融公庫が1週間に2回は訪問に来て、資金繰りや約定変更の対応をしてくださるので大変感謝しています。
つなぎの資金を出していただく、あるいは今まで借入した部分を半年間元利ともに棚上げする、そんな形の約定変更というものがあります。     後は、市内の銀行に私の方から足を運ぶと、銀行も快く対応してくださいました。
そのように、商工会の対応が非常に早く進みましたので、会員の方々にはとても喜んでいただいたという事実があります。
東日本大震災では、商工会員も甚大な被害を受け、廃業・移転などを余儀なくされた方もおります。
そのような中で、被災事業者の復旧・復興のために国により創設された中小企業等グループ施設等復旧整備事業の採択を目指し、商工会職員一丸となって、相談や書類作成の支援などを行いました。
その結果、約200人以上の方々がグループ補助を活用することができ、被災商工会員の復旧・復興が加速しました。
震災後、二重ローン・二重リース問題が生じた際も、参議院の東日本復興特別委員会で救済策をお願いしたところ、東日本大震災事業者再生支援機構が出来るなど、積極的に動いた事で、さらに多賀城市の復旧は早く進みました。
しかし、多賀城市では、ほとんどの工場が被災していました。多賀城が発展の礎を築いていてこられたのは、工場地帯の固定資産税や法人税によるところが多いです。その税収が減ると思いますので、今後も税制面ではかなり厳しいと想像しています。

来訪者を増やす防災施設

(聞き手)
今後は減収分を補っていかなければならないのではありませんか。

(安住様)
多賀城市は史跡と工場のまちなのですが、復興に伴って新たな開発が必要になってくると思います。
多賀城市の観光客は年間約30万人で、そのうち東北歴史博物館に来る方が8割ですが、子ども達の遠足と修学旅行ですので経済効果はあまり得られません。
多くの方に足を運んでもらうためには、そこに防災施設的な部分を取り入れて発信していければと考えています。
多賀城市は八幡字一本柳の土地区画整理事業にも力を入れています。将来的にはこれも大事な事だと思いますが、やはり多賀城は工場地帯で栄えてきて、皆さん、もう一度活性化していきたいと願っていますので、そのためにもまずは区画整理をする必要があると思います。
そして、仙台新港の背後地に流通拠点をつくり、雇用が生まれればと思っています。
多賀城市が推進する災害による被害を最小限にしようとする「減災」というような取り組みをしていても、不安がありますので、防災対策を考えた上での設計を進めていければと思います。
自社には津波が7メートル来ましたが、60人いた従業員は避難して助かりました。
しかし、設備等は甚大な損失を受けました。ボイラーの地下タンクも浸水し、工場にあったタンクローリーは密閉性なので完全に浮いていました。

多賀城・七ケ浜商工会の新しい取り組み

(聞き手)
揺れがあった時点で津波が発生するというのは予見していましたか。

(安住様)
私は昭和35年のチリ地震津波と、昭和53年の宮城県沖地震を経験しています。
チリ地震津波の時は幼稚園の遠足の日でした。貞山堀から下を見ると塩釜の観光汽船が流されて来ていました。
水害は3回遭っているのですが、平成6年の9月6日の水害の時は道路から5段高くなっている階段を越えて、床の換気口まで水が来ました。
新潟地震の時は小学校4年生で、地震が来て、すぐ先生に机の下にもぐれと言われた記憶があります。
東日本大震災の前年にチリで地震があって津波が来るという警報が出ましたが、実際には被害も少なく、今回も同じだと思っていましたので、まさか今回、国道45号まで津波が来るとは思いませんでした。
震災の日は商工会連合会の理事会で仙台に行っていました。
地震で建物が倒壊するのではないかという恐怖を感じながら、机の下に潜っていました。
そして、揺れが収まりコインパーキングから車を出そうとしたら出られず、そこで停電に気付きました。仕方なく、新しく購入したばかりの車を傷つけながら、バーを乗り越えました。信号機は止まって渋滞していました。
ようやく、自分が経営している会社の一つである桜木にあるレンタル用品会社に着いた時には津波の来る10分前でした。
大津波警報が発令されたというので、社員に指示を出して防災用テントやストーブを倉庫から出し、用意しておくように言いました。
そして、今度は塩釜の別会社に行こうとしたのですが、さらに渋滞していて、車が動きませんでした。
そして、何となく横を見ると、従業員の車が流されていたので慌てて会社に歩いて戻りました。事務所の中に入った時には、すでに膝まで浸水していました。従業員は2階に逃げていたのですが、私はデスクの上に上がっていれば大丈夫だろうと思っていました。
結局、天井近くまで水が来て、展示用に置いていた旅行用のスーツケースを浮きにして顔だけ出している状態でした。ドアを閉めていたので水位が上がり、室内で渦を巻いていました。店舗は全面ガラスでしたので、車やコンテナが流されていくのが見えました。私は3時間ほど水の中にいましたが、従業員に助けられました。
その後、翌日の朝4時ぐらいに自衛隊のボートに救助され、キャッスルプラザ多賀城というホテルに向かいました。朝8時時点でホテルの前は水が引いてきていました。そこからは歩いて自宅に行きました。
帰宅後、自宅の車庫に災害対策本部を作って役員を集め、炊き出しをしました。この地域は都市ガスが多いのですが、自宅はプロパンガスだったのでお湯を沸かす事が出来ましたし、温水器も一般的な物より大きい650リットルでしたので助かりました。
私の会社は、他にもドーナツ店を9店ほど持っているので、避難所などに4万個ほど配りました。古川や泉で作らせて運び、七ケ浜町に12,000個、多賀城市に18,000個を送り、1週間以上休まず続けました。その後は安否確認を取るために現場に行きましたが、名簿を書くにしても、電気が止まっているのでパソコンが使えず大変でした。
各地から視察に来られた方には、会社にポリタンクを常に2つから3つ用意して、水と灯油を入れられるようにしておいてくださいといつも言っています。また、電気は使えないので発電機も準備しておくことも提案しています。
宮城県の商工会連合会では各商工会に1台ずつ発電機を置きました。先を見越して備えておくように話しています。
温故知新という、古きものを尊んで、そこに新しい物を取り入れていくという考え方があります。会長は私で6代目になりますが、先人が築いてきた部分もありますし、多賀城と七ケ浜の商工会が合併する時の大変な努力を知っているので、敬意を表して継承するために、望んでいることを的確に把握をして反映していくのが商工会運営の1つだと思っています。
商工会というのは法的に認められた組織で、公金で運営しているので、職員には心構えを非常に厳しく言っています。
今、他の商工会がしていない事を取り入れて、全国的にも珍しい六次産業化という事をしています。
これは農業の方々が野菜を作って販売し、農協と漁協と商工会が一つになって地産地消をしていこうという新たな形態です。
七ケ浜の海沿いに関しては、用途も決まっていなければ区画整理も出来ていないというので、国土交通省の調査費用で、道の駅ならぬ海の駅を立ち上げる予定です。
また、七ケ浜の花渕地区の構想も出来ていて、漁協の整備事業で海苔の種付けなどもしています。
他に、仙台市内に、「まるごと食堂」というものをつくりました。
ここで出している魚や野菜などの食事関係はほとんどが七ケ浜産のものです。
自分の経験値と人脈を使って皆さんに喜ばれることをしていきたいと思っています。いつまでも他人に頼って文句ばかり言わずに、自分たちで出来る方向性を考えようという意識が必要だと思います。
商売でも将来設計は大変厳しい部分はありますが、協調と統一を大事に前進するしかないと思います。3年も全国から支援を頂いていますが、感謝と奮い立つ精神がなければ復興は難しいと思います。制度的なものは出来ているので、それをいかに活用して糧にするかという大切な時期に入りつつあると思います。

百年の計~現状をふまえ将来を見据えたまちづくりを~

(聞き手)
安住様は、多賀城市の各種委員会の委員もされていらっしゃいますね。

(安住様)
復興検討委員会の専門委員をしていました。
東日本大震災の前年は総合計画の見直しの時期でした。翌年に震災があったため、復興計画委員会が出来て、ある程度方向性は出来ていたので、その後、長期総合計画を新たに始めています。
都市計画審議会の委員もしています。計画の中には土地の用途変更や、総合防災計画が入っています。減災という形で、防潮堤に関する県道のかさ上げと緩衝緑地の問題について国、県、多賀城市と話し合いをしています。
ですが、工場地帯の計画については見直しが必要だと思っています。今まで多賀城の礎を作ってきたのはソニーさんのような工場地帯の企業だと思いますが、それに関する盛り込みが少ないと感じています。
今後は多賀城市工場地帯連絡協議会と多賀城市労働福祉連絡協議会で多賀城市と思慮を重ねていきたいと考えています。10年先の多賀城を見据えた時に、予算を無理して投資しても、整備が不十分で急激な開発による反動で、得られるものは少ないのではないかという事を懸念しています。
ですので、着工までに多少時間を要しても議論して都市の開発をしていきたいと思います。
今から10年も経てば、多賀城市民で65歳以上の方が35%以上になります。65歳以上の人たちの占める割合が非常に高くなる事を考えれば、今後はバリアフリーの町を作り、安心して暮せる医療施設を整える事も大事だと思います。
他には、構想として、多賀城駅周辺に商店街を固め、文化センターの道路を広く区画整備して物産館のようなものをつくり、観光客を集客したいと思っています。
ところが、資金と運営についてまだ決まっていないという事と、多賀城の物産というとそれほど特有のものがあるわけでもないので実現性は難しいと感じています。
また、多賀城駅の中に観光案内所が出来ましたが、観光に来た方は多賀城で飲食をし、宿泊するという事が少ないというのが実情です。
バスで来たとしても仙台空港で降り、仙台市内を見てから、仮に多賀城に寄ったとしても松島で宿泊するでしょうから、通過点でしかありません。
私は観光協会が月1回行っている勉強会で講演をすることもありますが、その際には、「観光協会は軸足を据えて、きちんと観光ボランティアをして頂ける方を配置しなければならない」とお話しします。
赤字では商売になりませんし、何をするのにもお金が掛かるということを認識し、机上論だけで物事を考えずに積極的に進めていかなければ道は開けないと思います。
私の父親は県会議員をしていて、「政治というのは百年の計で物事を作らなければならない」とよく口にしていました。そこで、これからは公衆衛生が大切な時代になるだろうという事で、大代地区に県の施設で、下水の終末処理場を作りました。そのため、多賀城は下水道の普及率が90パーセント以上で、宮城県で最初に90%台を達成しました。
また、多賀城市は頻繁に水害が起きていたのですが、遊水池を設けようという事で、市川沿いの砂押川に越流堤を作りました。これも百年の計といえるでしょう。
復興計画に関してもそうですが、将来を見据えて取り掛かる事が大事だと思います。
私は、多賀城生まれの多賀城育ちで、昔の様子を知っていますので、多賀城をより良くしていくために色々と意見しますが、その思いだけはどうかご理解頂ければと思います。