(聞き手)
揺れがあった時点で津波が発生するというのは予見していましたか。
(安住様)
私は昭和35年のチリ地震津波と、昭和53年の宮城県沖地震を経験しています。
チリ地震津波の時は幼稚園の遠足の日でした。貞山堀から下を見ると塩釜の
観光汽船が流されて来ていました。
水害は3回遭っているのですが、平成6年の9月6日の水害の時は道路から5段高くなっている階段を越えて、床の換気口まで水が来ました。
新潟地震の時は小学校4年生で、地震が来て、すぐ先生に机の下にもぐれと言われた記憶があります。
東日本大震災の前年にチリで地震があって津波が来るという警報が出ましたが、実際には被害も少なく、今回も同じだと思っていましたので、まさか今回、国道45号まで津波が来るとは思いませんでした。
震災の日は
商工会連合会の理事会で仙台に行っていました。
地震で建物が倒壊するのではないかという恐怖を感じながら、机の下に潜っていました。
そして、揺れが収まりコインパーキングから車を出そうとしたら出られず、そこで停電に気付きました。仕方なく、新しく購入したばかりの車を傷つけながら、バーを乗り越えました。信号機は止まって渋滞していました。
ようやく、自分が経営している会社の一つである桜木にあるレンタル用品会社に着いた時には津波の来る10分前でした。
大津波警報が発令されたというので、社員に指示を出して
防災用テントやストーブを倉庫から出し、用意しておくように言いました。
そして、今度は塩釜の別会社に行こうとしたのですが、さらに渋滞していて、車が動きませんでした。
そして、何となく横を見ると、従業員の車が流されていたので慌てて会社に歩いて戻りました。事務所の中に入った時には、すでに膝まで浸水していました。従業員は2階に逃げていたのですが、私はデスクの上に上がっていれば大丈夫だろうと思っていました。
結局、天井近くまで水が来て、展示用に置いていた旅行用のスーツケースを浮きにして顔だけ出している状態でした。ドアを閉めていたので水位が上がり、室内で渦を巻いていました。店舗は全面ガラスでしたので、車やコンテナが流されていくのが見えました。私は3時間ほど水の中にいましたが、従業員に助けられました。
その後、翌日の朝4時ぐらいに自衛隊のボートに救助され、キャッスルプラザ多賀城というホテルに向かいました。朝8時時点でホテルの前は水が引いてきていました。そこからは歩いて自宅に行きました。
帰宅後、自宅の車庫に災害対策本部を作って役員を集め、炊き出しをしました。この地域は都市ガスが多いのですが、自宅はプロパンガスだったのでお湯を沸かす事が出来ましたし、温水器も一般的な物より大きい650リットルでしたので助かりました。
私の会社は、他にもドーナツ店を9店ほど持っているので、避難所などに4万個ほど配りました。古川や泉で作らせて運び、七ケ浜町に12,000個、多賀城市に18,000個を送り、1週間以上休まず続けました。その後は安否確認を取るために現場に行きましたが、名簿を書くにしても、電気が止まっているのでパソコンが使えず大変でした。
各地から視察に来られた方には、会社に
ポリタンクを常に2つから3つ用意して、水と灯油を入れられるようにしておいてくださいといつも言っています。また、電気は使えないので発電機も準備しておくことも提案しています。
宮城県の
商工会連合会では各
商工会に1台ずつ発電機を置きました。先を見越して備えておくように話しています。
温故知新という、古きものを尊んで、そこに新しい物を取り入れていくという考え方があります。
会長は私で6代目になりますが、先人が築いてきた部分もありますし、多賀城と七ケ浜の
商工会が合併する時の大変な努力を知っているので、敬意を表して継承するために、望んでいることを的確に把握をして反映していくのが
商工会の
運営の1つだと思っています。
商工会というのは法的に認められた組織で、公金で
運営しているので、職員には心構えを非常に厳しく言っています。
今、他の
商工会がしていない事を取り入れて、全国的にも珍しい六次産業化という事をしています。
これは農業の方々が野菜を作って販売し、農協と漁協と
商工会が一つになって地産地消をしていこうという新たな形態です。
七ケ浜の海沿いに関しては、用途も決まっていなければ区画整理も出来ていないというので、国土交通省の調査費用で、道の駅ならぬ海の駅を立ち上げる予定です。
また、七ケ浜の花渕地区の構想も出来ていて、漁協の整備事業で海苔の種付けなどもしています。
他に、仙台市内に、「まるごと食堂」というものをつくりました。
ここで出している魚や野菜などの食事関係はほとんどが七ケ浜産のものです。
自分の経験値と人脈を使って皆さんに喜ばれることをしていきたいと思っています。いつまでも他人に頼って文句ばかり言わずに、自分たちで出来る方向性を考えようという意識が必要だと思います。
商売でも将来設計は大変厳しい部分はありますが、協調と統一を大事に前進するしかないと思います。3年も全国から
支援を頂いていますが、感謝と奮い立つ精神がなければ
復興は難しいと思います。制度的なものは出来ているので、それをいかに活用して糧にするかという大切な時期に入りつつあると思います。